*永山則夫の遺志とは

 永山則夫、彼の存在は、1969年に凶悪な連続射殺魔として逮捕され、しばらくして彼が牢獄の中で書いたノート、
『無知の涙』を読んで以来、絶望的に思える状況の中で、精神が破壊されてしまわない為には≪言葉≫というものが
不可欠であるということを私に突き付け続けています。彼は、彼と同じように、貧しさゆえに犯罪に手を染めかねない
子どもたちに、何とかして手を差し伸べたいと願っていました。しかし、刑は執行されてしまいました。彼の願いは断た
れたかのように見えましたが、そうした子どもたちの為に、彼は処刑される直前に、「自分の書いた本の印税を、日本
と世界の子どもたちへ、特にペルーの貧しい子どもたちに使ってほしい」という遺言を残していたのです。そして彼の
死の直後、彼を支援し続けてきた人たちの手によって、彼の遺志は生かされ、『永山子ども基金』が発足しました。
ペルーの子どもたちを支援し、今、そのペルーの子どもたちと、日本の不登校などの問題と取り組む若者たちとの交
流が深められていっているといいます。
 彼の支援を受けた、ペルーの働く子どもたちの自主運営組織“ナソップ”の代表の一人である18才の子が、
「ナガヤマは<人は変われる>と身体で証明し、希望を与えてくれました。彼の遺志を受け継ぎます。」と話したそうです。
 永山則夫さんの願いも虚しく、凶悪な少年犯罪が後を絶ちません。多くの人たちに、永山則夫という死刑囚が、どう
追い詰められ、取り返しのつかない罪を犯してしまったのか。そして、何に出会い、何を考え、どう変わっていったのか
を知ってもらいたいと説に思うのです。


 
   母が教えてくれたこと

 遠い日の、忘れられない母の姿があります。 
私が四才くらいの時のこと、母と近くの山を歩き、木陰で一休みしていたとき、母は木を見上げて、こんなことを言いました。
「順子、見て御覧なさい!木は喧嘩しないで、みんな大空に向かって枝を伸ばしているでしょう・・・。だから、美しいのよ!
・・・だから、お母さん、木が大好きなの・・・。」 そういった母の横顔を見たとき、世界のことなど何も知らない子どもなのに、
母のことを、世界で一番美しい人だと思いました。そして何故か、悲しいような、淋しいような顔だな、とも思いました。そのこ
との本当の意味を知るまでには、長い時間が必要だったのですが・・・・・・・。その時の母の言葉が、私の考える元になって
いったような気がするのです。母から教わったことは一つや二つではありませんが、もう一つ重要な意味を持つことがありま
す。私が母親になって一ヵ月も経たない頃のことです。娘を母に預けて歯医者さんに行き、帰ってきた時、少し時間がかかっ
てしまって、お腹をすかせているだろうなと思い、すぐに抱っこして、おっぱいを飲ませようとしたのです。すると、小さな手でぐ
っと突っ張るようにして拒絶するのです。その時それを見ていた母が、「おりこうさんに待っていたんだから、ちゃんと誉めて、
話し掛けてあげなさい!」そう言ってくれたのです。母にそう言われて、「おりこうさんに待っててくれてありがとう!おりこうさ
んにしていてくれたから、お母さん、歯医者さんに行ってくる事が出来たわよ。お腹がすいたでしょ、おっぱいいっぱい飲みま
しょうね!」抱っこしながら、そんな言葉をしっかりとかけました。すると、一ヵ月にもならない赤ん坊が、その言葉の意味をち
ゃんと理解し、納得がいったという様子で、おっぱいをゴクンゴクンと飲み始めたのです。私の赤ちゃんに対する認識が大き
く変わった瞬間でした。人間は、生まれた時から、ちゃんと人格を持った一人の人間なのです。自分の小さかったときの事を
思い出して考えてみても、大人のやること、話すことをようく見ていたし、聞いていて、ちゃんと子ども心に、事の善し悪しを判
断していたように思います。そうした人格を小さい時から踏み躙られ続けたら、一体、どうなるでしょうか・・・・・・。
 永山則夫さんの場合は、貧しさの中で誰からも顧みられずに、ある時は蔑んだ眼に晒されながら、人格を踏み躙られ続け、
自暴自棄に陥ってしまい、たまたまピストルを手に入れてしまったばかりに、あのような事件を引き起こしてしまいました・・・・・。
 今、次々に起こる、凶悪な少年犯罪が、教育熱心な両親のもとで、何の不自由もなく問題も起きそうにないほど環境的には
整っている家庭で起きているのは、どうしてなのでしょうか。経済的な豊かさのなかで、子どもを愛しているつもりが、子ども
の自主性を奪い、人格を無視し、傷つけてしまっているのではないかと思うのです。今、知能が遅れているわけではないのに、
自画像を描かせると、手も足もない胴体だけの絵を描き、母親を描かせても、手がなかったり、台所に頭だけがゴロンと転が
っているような、不気味な絵を描く子どもが増えているんだそうです。そうした問題は、1980年代後半からじわじわ進行し、
最近になって一気に加速しているというのです。≪『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』藤原智美著 祥伝社刊≫
 親と子の関係も、人と人との関係も、とても危うくなっている気がします・・・・・・。

 今回の公演の初日、11月18日は、奇しくも私の母の命日にあたります。母が教えてくれた、抱きしめることの大切さと、
子どもにまっすぐに向き合って語りかけることの大切さを、今一度、噛みしめたいと思います。

                                田井 順子    〜公演パンフレットより〜



















                      
 *永山則夫の詩と芥川龍之介の『蜘蛛の糸』をモチーフに
 
 舞台俳優である男が、演出家から、「世界がこんなにも深刻な問題を抱えているというのに、
君たちはどうしてそんな虚飾に満ちた表現しかできないんだ・・・?僕たちは現実を引き受ける
というか、現実を感じとる感性を失ってしまっているんじゃないだろうか・・・?」と問われ、演出家
の提案で、劇団員全員で自分と世界との繋がりを見つめて、それぞれに台本を書いてみようじゃ
ないかということになります。男も自分の作品を書こうとしていましたが、その矢先に胃潰瘍で大
量の喀血をし、入院してしまいます。男は自分が癌だと思い、死を意識した中で自分を追い詰め、
何を書くのかを考えます。すると、自分と同じ年の同じ月に生まれた、永山則夫のことが頭から
離れなくなってしまいます。そして、自分と彼を分け隔ててしまったものとは何だったのかを考え
て行った時、お互いの母親の姿が浮かび上がってきました。男は、永山則夫の遺稿集『日本』の
一連の詩を横糸に、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を縦糸にして、一人一人が人間の名に値する何
者かである為に、何が必要なのかを考え、作品を書き進めていきます。



 *この作品は、劇団の原点とも言える、旗揚げ公演『階段の上少年』の新バージョンです。

 今回の作品は、1999年2月の旗揚げ公演、『階段の上の少年』を新たな作品に書き改めた
ものです。今回も前回と同様に、舞台俳優である男の思考が軸になって物語が展開していきま
す。前回は男の思考の中に、宙に浮いた階段の上に青白い顔で立っている少年がいて、その
少年が<それでいいのか?それでいいのか?>と男の表現の本質に問いかけてくるというもの
でした。その少年とは、1997年8月1日に死刑執行された、永山則夫死刑囚のことでした。
彼は、1969年に逮捕。犯行当時、19才の少年でした。

2005年11月18日(金)〜20(日)    うりんこ劇場
作・演出 田井 順子 
階段の上の少年 〜手のない母の肖像画〜