今回の作品は、時間に流されるのではなく、時を記憶し、記憶を持続していく（考え続ける）中で、直感が
生まれ、エラン・ヴィタル（生命の創造的飛躍）へと進化していくことが出来るという、ベルグソンの哲学思想
を軸に、チェーホフの書いた≪伝説の黒衣の僧≫を目に見える姿として舞台上に甦らせたいと思っています。　
　
登場人物は、劇的緊張感を高めるため、黒衣の僧と若い娘の２人のみに絞りました。
　
作者の田井順子は、台本の冒頭に、＜この舞台では、ベートーヴェンの交響曲、特に、第５番ハ短調作品６７
≪運命≫が重要なテーマとして使われる。これはパロディなどでは断じてない。≪本質のみを語れ≫と言った、
ベートーヴェンの崇高な魂の結晶である彼の音楽の力を借りて、混沌とし、行き先を見失ってしまっている２１世
紀の今に、私たちの手元に、多くの透明な幽霊の複合体としての、人類の選れた先人達の魂を甦らせたいと、
切に、切に願うものである。＞と書き示しています。

本と出会うということと、エラン・ヴィタルについて

　私は、本を読むということと、本に出会うということは、必ずしも一緒ではないような気がしています。
それは、彫刻『考える人』で有名なロダンの、こんな言葉と重なります。

　　　 ≪ どこから、その恩寵（おんちょう）が私に来たか。
　　　　　最初森林の中の散歩が、私に空を発見させた。
　　　　　それまでは、毎日この空を見ていると思っていたのだ。
　　　　　が、ある日はじめて、私はそれを見た。 ≫　　　　高村光太郎訳『ロダンの言葉』より

　本を読んでいて、物語の世界から、突然のごとく、その物語を書いている人間の魂が立ち上がって
くる瞬間というものがあるのです。　今回、そんな本との出会いを描いてみたいと思いました。
　　『黒衣の僧』を読んでいると、チェーホフがそんな魂と出会ったことがうかがわれます。そして、彼が
この作品について、＜一人の誇大妄想狂を描きたい望みが起こっただけなのです＞と言った真相を、
私はこんな風に考えます。
　チェーホフは、時空を越えて、ソクラテスやディオゲネスやマルクス・アウレリウスの魂と出会い、彼らの
魂と対話しながら、革命前の暗い時代を善なる願いをもって生きぬき、そして、その証として書いた自分
の作品が、またさらなる時空を越えて、何時の日か、彼が生きていた時代には手の届かなかった人々
（搾取するのではなく、自分の生活を労働で購う人々）の前に立ち現われることを予感したに違いないと。
　そして、彼が予感したとおり、時空を越えて、宮沢賢治にも届いたのだと。
　『春と修羅』の序文は、チェーホフの想いに呼応するものだと、私には思えるのです。詩集の中で、賢治
は、＜ロシアだよ　チェホフだよ＞とうたい、また『小岩井農場パート１』の中には、チェーホフがあたかも
黒衣の僧のように立ち現われる様子（私にはそう思えるのです。）が描かれています。

　　　　≪　うしろから五月のいまごろ　黒いながいオーヴァーを着た医者らしいものがやってくる
　　　　　　たびたびこっちをみているようだ　
　　　　　　それは一本みちを行くときに　ごくありふれたことなのだ ≫・・・と。

　私は、ロダンやチェーホフや宮沢賢治、そして、今回音楽としてこの劇を支えてくれたベートーヴェン
の魂に起きたことこそが、哲学者ベルグソンが言い表した、エラン・ヴィタル(生命が躍動すること）なのだ
と思うのです。
　彼ら天才たちの創造的感情は芸術作品となり、閉ざされた砂漠を横切って、魂から魂へ≪遠くから≫
飛躍し、今、私たちのすぐ手元にあるのです。手を伸ばしさえすれば、彼らの魂に触れることのできる時代
に、私たちは生きているのです。
　今から、百年あまり前、ロマン・ロランというフランスの作家が『ベートーヴェンの生涯』という本の序文の中
で、こう書いています。

　　　　≪　人々よ、あまり嘆かないようにしたまえ。人類最良の人々が、君らとともにいるのだから。
　　　　　　彼らの勇気をもってわれわれの心の糧としようではないか。
　　　　　　そして、われわれがあまり心弱くなった時は、しばし、われわれの頭を彼らの膝の上に
　　　　　　憩わせようではないか。彼らはわれわれを慰めてくれるだろう　≫と。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（平岡昇訳『ベートーヴェンの生涯』による）

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　田井順子