ひとり芝居「階段の上の少年1999」ふたり芝居「雨の午後」 

上演パンフレット記事より

     『シ』の音を聞く〜向こう側とこちら側の裂け目から〜 

 自分が立っている場所というものを初めて意識したのは、小学校の一年生の時。
 したというより、させられたと言った方がいいのかも知れない。
 夏休み前のある日、学校の帰り道でその出来事は突然に起こった。
 
 私の家は小高い丘の上にあって、長い坂道を登って帰らなければならないのだが、
その坂道の途中に、大好きな一本の楠(くすのき)があって、その樹に登って一休み
するのが私の毎日の日課のようになっていた。
 その樹は、小さな私でも軽々と登って腰をかけるのに丁度いい枝を持っていて、
その枝に腰かけて、風に吹かれながら一人で遠くをみていると、まるで自分が
樹の精にでもなったような心持ちになったものである。
 
 その日も学校から一目散に、その樹に向かって歩いていた。すると、遠くからも、
その樹の下に、暑さから逃れて一休みしている親子連れが見えた。
 私は歩みを出来るだけ遅くしたのだが、その親子連れは一向に立ち上がる気配がなく、
とうとうその樹を通り過ぎなければならなくなった。
 通り過ぎる時、私は、その親子をチラチラと横目で見ていた。
 
 その時である。
 
 今まで聞いたことのないような、恐ろしい罵声を浴びせられたのである。
  「何を、見さらしてんじゃ!!」
 その一瞬、その凄まじい、怒りに満ちた声を発した人の顔を見た。
 その人は、白いチマチョゴリを着ていて、母親だと思っていた人は、孫を連れた
おばあちゃんのようであった。
 私は、恐ろしくなって、一目散に走って家に帰った。
 家に帰ってからも、凄まじい罵声が耳に残り、怒りに満ちたおばあちゃんの顔が
目に焼き付いて離れなかった。しかし、どうしてだったのかは自分でも分からないが、
その日のことは、母にも誰にも話さなかった。
 
 今は、韓流ブームで、韓国の人を差別的に見る人は、ほとんどいないと思うのだが、
私が子どもの頃は、朝鮮人という呼び方で、ひどい差別があり、差別されていた人たちは、
粗末なバラックに身を寄せて暮らしていた。
 学校の帰り道にも、そんな場所があったので、そこで暮らす人の悲しみのようなものは、
子ども心にも分かるような気がしたが、自分が、差別する側に立っているなどということは
思ってもいなかった。あの時も、ただいつものように樹に登りたいと思っただけで、差別的な
思いでチラチラ見たわけでは決してなかったのだが、そのおばあちゃんにしてみれば、
私の目は、差別以外の何物でもなかったに違いない。
 
 おばあちゃんは、小さな孫を庇うように抱えこんでいた。
 
 あの時のおばあちゃんが発した声と、怒りに満ちた悲しい顔は、56年が経った今でも、
脳裏に焼き付いたままである。
 その強烈な実体験が、知らず知らずの間に、自分が立っている場所というものを意識
させてきたような気がする。
 
 それから13年後、私が19歳の時に、広域連続射殺魔事件が起こり、永山則夫が逮捕
された。彼も、私と同じ19歳の少年だった・・・・・・・。
 あれから、特に永山則夫が逮捕されてから書いた『無知の涙』を読んでから、
向こう側とこちら側について、どこがどう違って、同じなのか、その裂け目から
聞こえてくる叫び声にも似た『シ』の音が、ずっと耳の奥で聞こえ続けている。

 白いチマチョゴリを着たおばあちゃんに出会った、楠のところから、坂道をもう少し
上がったところに、児童養護施設があった。5年生のとき、そこから通ってくる同級生
がいて、よく施設に遊びに行ってから、彼女がそこを出て親元に帰ってからも、
時折立ち寄っては小さな子どもたちと遊んだりしていた。高校3年生の時、久しぶりに
遊びに行った時、言葉をかけてもらえずに3才になった男の子が保護されて来ていた。
 その子が“かんちゃん”である・・・・・・・・。
                           田井順子